岩倉城主に関する推測

今城能親が岩倉城に居たことは間違いないと思われるが、松浦将監が居たと記す書もある。考えられるのは、能親が家督を能信に譲った後岩倉城に移り、その没後家臣の将監が城を預かったケースと、逆に始めは将監が居たが、能親が家督を譲って岩倉城に移り将監に変わって城主となったケースであろう。どちらかと言えば前者と推測するが、能親の没年が不明で断定できない。そこで能親の事跡から推測して見よう。能親の事跡のうち、目に付くのは次の二つである。

  • 天文6年 (1537年) 能親 京で連歌の会を開催
  • 元亀元年 (1570年) 一条兼定の弟東小路法行が金山城を攻めた時、能親は岩倉城から出陣し、能信を援けて戦う。

いずれも清良記に載っているが、前者は続群書類従第十七輯上巻に記されているので、事実と見て良いだろう。だが後者は実証するものがあるかどうか知らないので、何とも言えない。これが事実とすると、両者の間が33年であり、元亀元年には相当の歳の筈である。従って能親は更に15年後の秀吉の四国平定時(天正13年・1585年)以前に没していたと思われる。これだけで断定は出来ないが、松浦将監が居たと記す書は秀吉に降伏した時の城主を指していると推測して良さそうだ。