新田神社

石手川を遡り、石手川ダムを越えて更に行くと、藤野町円福寺が、その先800m位河中町に新田神社がある。新田神社は上・下二つあり、上新田神社は新田義宗(義貞の子)を、下新田神社は脇屋義治(義助の子)を祀っている。神社の近くには二人の五輪塔があり、位牌は円福寺にあるそうだ。
戦いに敗れ苦境に陥っていた二人は、明徳3年(1392)に、得能氏に招かれて一族三十数人が商人や山伏などに姿を変え、敵の目をくらましながらやっとの思いでこの地にたどり着いたとのこと。両新田神社は二人を哀れんだ村人が建て、天文十七年(1548)河野通直が再建し、その後加藤嘉明と蒲生忠知が廟祠を新造。宝永元年(1704)11月、三百年祭を松平定直が新田神社と円福寺で行った由。
義宗・義治が落ち延びて来た明徳3年(1392)は、南北朝合一がなった年であり、その数年後には河野氏は本城を湯築城に移している。本城を湯築城に移したということは、この時期北朝方の河野氏は既に道後平野における地歩を固めたと見て良いだろう。しかるに、そのような時期にあっても、南朝方の得能氏が義宗・義治を招き、日浦に住まわせたと言うことは、得能氏は日浦地区と言うか湯山地区と言うべきか知らないが、湯築城からそう遠くは無いこの一帯を依然として所持していたことを意味し、得能氏の力、その健在振りを示すものと思われる。
しかしその後、何故か知らないが得能氏が衰退し、この地は河野氏の手に移ったようだ。新田神社の再建を得能氏でなく通直が行ったのはそのためであろう。だが、北朝方の河野氏南朝方の武将を祀る神社を再建したのは何故か、興味をそそられる。時代が下がって加藤嘉明と蒲生忠知が廟祠を新造し、更に三百年祭を松平定直が執り行なっている。以上の事実はこの地域の歴代の支配者が新田神社を大切にしたことを物語っている。それは何故か、興味を惹く。
さて、伊佐爾波神社にも新田霊社があり、新田義宗脇屋義治と松平定直が祀られている。新田霊社がいつからあるのか知らないが、新田神社の三百年祭を行った松平定直が祀られているのは興味深い。これは新田霊社が定直の死後造られたことを示すものか。