専福寺が竹ヶ鼻村へ移転した時期に関連する疑問

岐南町史P.208に専福寺は、慶長九年(1604)に葉栗郡竹ヶ鼻村に移転したと記されている。1586年の大洪水で現在の木曽川の流れが出来、その数年後に秀吉は木曽川尾張と美濃の境としたと聞く。この変更により元の葉栗郡尾張と美濃に分割され、美濃側は羽栗郡と称した。
専福寺の竹ヶ鼻村移転が1604年なら、美濃に編入された後のことではなかろうか。そうであるなら葉栗郡というのは誤りで羽栗郡のはず。それとも郡の名称を羽栗郡に変えたのはもっと後のことなのだろうか。
今一つ、正木村、竹ヶ鼻村は木曽川の大洪水の前から葉栗郡に属していたのかと言う疑問がある。両村が元々葉栗郡であったとするなら河沼郷(後の河野郷)に属していた筈で、河沼郷もしくは葉栗郡が河野島と呼ばれたからには、河沼郷の南限は現在の逆川だったのであろう。ここまでが河沼郷であったなら、河沼郷は他の四つの郷に比べて凄く広かったことになる。だがこの推測が当たっていると、河野島は二つの島からなっていたことになり、いささか奇妙である。
河野島と言う名称がいつ頃生まれたのか不明だが、木曽川の大洪水前であるなら、葉栗郡は河野島全体がその領域であり、大洪水後の名称であるなら羽栗郡の領域であったのではなかろうか。不確かな記憶だが信長が齋藤氏との戦いの時、河野島に攻め入ったという記述を見たことがあるので、この呼び名は大洪水の前からあった可能性が高い。木曽川両岸の地名の変遷を厳密に調べることが必要である。