ホワイトカラーの労働時間規制除外問題

管理職一歩手前のホワイトカラー(事務職)のサラリーマンについて、厚生労働省は27日、1日8時間、週40時間の法定労働時間規制から除外する「自由度の高い労働時間制」(日本版ホワイトカラーエグゼンプション)を、労働基準法改正案に盛り込むことを決めた。

と報じられている(ココ)。これに対し、民主党鳩山幹事長は、「ますます格差が広がってしまう恐れがある。とても許せる話ではない」と反対する考えを示した。さらに「(所得を)捕捉されやすいサラリーマンを狙い撃ちするものだ」と反対し、共産党市田忠義書記局長は「過労死や過労自殺を生み出す異常な長時間労働を一層激化させる。このような法制化は断固反対だ」と批判。社民党阿部知子政審会長も「違法な不払い残業を合法化することにほかならない」と反対した。どっちもどっちと呆れる。
こんなことは昔からやっており、目新しいことではない。この件を考えるには、仕事というものの概念を明確にすることが先決だ。英語では定型業務に従事する人と創造性を要求される業務に携わる人をはっきりと区別している。事務職ではsecretaryとclerk、技術職ではengineerとtechnicianである。両方とも後者は労働量が時間で測れる業務であるのに対し、前者は成果を時間で測ることは不可能な仕事である。昭和39年にアメリカに出張したとき、後者はタイムカードがあり、時間を基準にして給料が支給されているのに対し、前者はタイムカードは無く、年幾らの契約であった。勿論前者と後者では給料に大きな差があったが、前者は成果が上がらなければ責任を問われる仕組みだった。
日本企業では業務というものにアメリカのような明確な概念はないが、管理職でなくても残業代などを支給しない仕組みは昔から存在する。そもそも全員が管理職に向くはずはない。専門職として手腕を発揮する人には、管理職とせずに管理職と同列の専門職として遇し、それなりの給料を支払うシステムである。例えば技術者としては一流だが管理業務には不向きな人物を管理職にしたら、その人の能力を潰してしまう。このような創造性を必要とする人たちの成果を時間で測ろうとすることは、仕事というものの本質を無視した仕組みである。
この仕組みに反対する連中は、仕事が総て時間で成果を測定出来ると考えていることを意味し、その頭の硬さ、仕事というものの本質に対する無理解は論外だが、法制化する必要があるのか、いささか疑問に思う。その前に仕事というものの本質を捉え直すべきだと思う。定型業務と創造性を要求される仕事を同列に扱うことの方が問題であろう。