太平記に見る千丈原の戦い

鎌倉幕府が滅亡した1333年(元弘3年)から南北朝騒乱を経て、1392年(明徳3年/元中9年)に南北朝が合一するまでの約60年の間は、日本史上の混乱の期間であった。この間、河野一族も様々な転変を繰り返す。
鎌倉幕府方と朝廷方の戦いでは、河野一族は河野宗家は幕府方、土居・得能氏は朝廷方に分れ、続く南北朝の争いでは河野氏北朝方(武家方)、土居・得能氏は南朝方(宮方)で戦った。
このように河野氏と土居・得能氏は敵味方に分かれたが、太平記巻二十二を見ると不思議なことに気が付く。千丈原の戦いで宮方は敗北するが、最後まで奮戦し備後に引き上げた宮方の勇士達の名が記されている。その中に河野備前守通郷・得能弾正・土居備中守らの名がある。海遊庵主さんは、談話室ゆづき#6425で河野備前守通郷は通有の六男通里であり、同じく#6432で得能弾正は通有の三男通種の嫡子通時と考えられると、貴重な指摘をしておられる。土居備中守は誰か、今のところ不明である。土居通増が備中守であったが、千丈原の戦いの4年前に北陸で没しているので、該当する人物が見当たらない。
太平記の不思議なこととは、土居氏が宮方で登場するのは当然だが、通郷と得能弾正が海遊庵主さんの指摘通りとすると、通郷は通盛の兄であり、得能弾正は甥であるから、河野氏自身も武家方・宮方に分かれていたように見える。だがそう決め付けるのは早計かも知れない。と言うのは、その後の河野一族と細川氏との抗争を勘案すると、細川氏との戦いに際しては河野一族は色々な行き掛かりを捨てて結束したとも考えられる。どちらが正しいかを判断するには、史料を探すことが先決である。
 余談だが土居系図によると、土居通増の弟(と思われる)通景が千丈原で討ち死にしている。