アクリート11月号の中に古くさい記事

今日アクリート11月号(愛媛新聞社発行)が届く。『天守だけが城じゃない! 愛媛の中世城郭』と題する記事が目に入る。良い記事を書いて呉れたと読み進めるたが、湯築城の項で止まってしまった。
まず「伊予の戦国大名河野氏の居城」と言う説明は、どうもしっくり来ない。河野氏は一般に戦国大名に脱皮できなかったと評される。中世伊予の守護大名の方がしっくりする。
これに続いて、「それまで高縄山城を居城としていた河野通盛が、伊予を統べるのに好都合な道後平野の中心に拠点を移したのは建武3(1336)年。」も適切でない。高縄山には城跡は見付かっておらず、高縄山城とは高縄山周辺の山城の総称かと言われていて、何を指すのか不明である。それはさておき、河野氏は河野郷を本拠とし、周辺の山城を詰めの城としたのであって居城としたのではない。河野氏が本拠を湯築城に移したのは、現在では1400年前後ではないかと推測されている。伝承では湯築城の築城は建武年間と言われているが、明確な史料は無い。それを建武3年とどうして断定できるのか。また湯築城を初めて軍事拠点としたのは誰か、これも不明である。北朝方に間違いはないが、通盛とは考えにくく、細川氏の可能性の方が高いと見られている。また建武3年ころ通盛はまだ伊予を統べる立場にはなく、まだその力も無い。
更に、「福島正則が廃城するまで・・・」と述べているが、これにも異説が出ており、少なくとも藤堂高虎が津藩に転封となる1608年までは使われたとする説がある。
こうして見ると、アクリート11月号の湯築城の解説は、まだ中世の研究が進んでおらず、伝承が罷り通っていた20年も前の通説を鵜呑みにしたものに過ぎず、不勉強の謗りを免れない。昨日の湯築城歴史塾の取材記事では、講演内容が最新の研究成果が反映したものであることを称えながら、アクリート11月号の湯築城の記事は20年前に止まったままである。我々が湯築城を守る運動を展開していた頃の記者は良く勉強していた。その記者たちの書いたものと較べて、アクリートの記事は余りにも程度が低過ぎる。この有様では愛媛旧聞と名を変えねばなるまい。
そもそも新聞社なら最新の情報が集まるようなシステムを整備しておくことが必要であろう。また必要なときにはすぐ集められるような態勢を作っておくべきであろう。そのようなシステム整備が出来てなく、寝ぼけたような記事を書くとはとんでもない醜態である。情けない。