スポーツ観戦時の観客の反応

テレビで伊達公子が、ミスした時の観客の溜息に苛立っている場面が映されていた。ミスした時、或いは成功しなかった時の観客の反応は日本と欧米では全く違う。違いと言うより正反対と言うべきかもしれない。
随分昔のことだが、アメリカで少年野球を観る機会があった。一方のキャッチャーは小学校三年生で、両チームの最年少だった。その少年のチームが守っている時、本塁と一塁の中間にファウル・フライが上がった。キャッチャーと一塁手がボールに向かってダッシュし、最後届かないと見て小学校三年のキャッチャーがボールに向かってダイブした。しかしボールはミットの先に当たって地面に転がり、捕れなかった。しかしその瞬間、監督もスタンドの観客も一斉に「Good try!」と叫ぶと共に大きな拍手でその少年の懸命な全力プレイを讃えたのである。
この場面を見て、社会が教育すると言う言葉の意味が判った気がした。アメリカでは子供の時から、どんな時でも、失敗を恐れず全力を出し切ること、果敢に挑戦することを社会全体で叩き込んでいるのだ。子供の時には結果は問わない。結果に至るまでの努力、全力を尽すことが大切であることを教え込んでいるのだ。だからこそ成人した暁には、土壇場で萎縮することなく、底力を出すことが出来るよう、身に染み付いているのだろう。
あの場面で日本だったらどういう反応だったであろうか。「あーあ」と言う溜息だろう。あとは「もう少しだった、惜しかった。」と言う声が出るくらいであろう。
テレビでは伊達が苛立った場面を外国人に見せて、彼らだったらどう反応するか尋ねていた。問われた外国人は、「気にするな」とか「行け行け」と応援の言葉で励ますと答えていた。アメリカでの反応を見た者としては、当然そうだろうと思った。彼らは全力を出し切ったことを褒め称え、ベスト・プレイを引き出すよう応援する。プレイヤーと共に戦っていると言えるように思う。それに対し日本では結果が良ければ讃えるが、悪かったときは溜息となる。つまり結果を見ているだけ。伊達公子は随分と苛立っていたが、心から同情する。我々は応援の仕方を根本から考え直さねばならない。