半蔵門と甲州街道の特異性

竹村公太郎氏は著書『日本史の謎は「地形」で解ける』の中で、注目すべきことを幾つも述べている。今日はその中から半蔵門甲州街道を採り上げる。
江戸城の皇居の正門はどこか。竹村氏は半蔵門だと言う。半蔵門は他の門と違う点が幾つもあるそうだ。先ず、門の前にはふつうは堀を渡る橋が設けられている。半蔵門だけは橋でなく土塁が造られている。即ち土橋である。戦になった時、橋なら落とすことも出来るし、跳ね上げる構造にしておくことも出来る。だが土橋ではどちらも出来ない。防御面では不利であるが、橋が落ちたりする危険は無く、通路としては安全である。
次に半蔵門には五街道の一つに数えられる甲州街道が、真っ直ぐ門まで来ている。五街道日本橋を起点とするが、甲州街道だけは内堀に沿って城を半周し、半蔵門の前から西へ向かう。これは今は新宿通りと呼ばれている。
新宿通りは半蔵門の前から四谷大木戸に向かうが、これは尾根道であり、両側に向かって下っているので、大雨が降っても水没することは無い。
更に新宿通りの両側には、尾張家、紀州家、井伊家など大名屋敷を置き、将軍家の親衛隊とも言うべき旗本の一番隊、二番隊、・・・を配置し、防備を固めている。その名残が紀尾井町や、一番町、二番町、・・・などの町名として今も残っている。
このような条件を有する半蔵門が、一般に言われるような裏門である筈はなく、正門が相応しいと竹村氏は説く。現在はどうかと調べると、天皇・皇后両陛下も、皇太子殿下も、公式行事の時は半蔵門をお通りになるらしい。と言うことは、江戸城の時代も現在の皇居になってからも、半蔵門こそが正門である。以上が竹村氏の推論である。
そう言われてみると、家康は中原街道を通って江戸に入ったと言う。その頃の江戸は利根川東京湾に注ぎ、日比谷の辺りも今の隅田川の流域も低湿地帯であった。日比谷の辺りを埋立たのは、江戸入府の暫く後の事業であり、東海道が整備されるのももっと後のこと。このような状態では江戸城の南側、東側に正門があるはずはない。
これらを考えると、竹村氏が説くように半蔵門こそが正門に相応しいと言えよう。目から鱗であった。
なお、中原街道脇街道の位置づけだが、東海道が整備されるまでは重要な街道だったのではなかろうか。この街道は平塚で東海道から分かれ、一直線に虎ノ門に向かう。その先は桜田門である。江戸城の門に向っている点では甲州街道と同じであり、他の街道とは異なる。興味を惹く特徴である。