7世紀の四国の状態は?

白村江の敗戦の後、天智天皇は近江に遷って防備を固めた。と言うことは、日本即ち大和朝廷の勢力圏は近江と難波を結ぶ線、つまり淀川のラインあたりまでで、それ以西は領外だったと推測される。魏志倭人伝では四国は倭人の国だが女王国即ち倭ではないと記す。白村江の戦いの時はどうだったのだろうか。松山市卑弥呼の時代の一つの国の跡と言われる樽味遺跡が出土しているが、その国がそのまま7世紀まで続いていたのだろうか。
斉明天皇は出陣前にかなり長い間伊予に逗留していらしたが、伊予の勢力との関係はどのようなものだったのだろうか。一丁四方という大きな構造物の遺構も出土している。大きさから見て行宮のような朝廷の何かではないかと推定されている。他国に来てこのようなものを勝手に造ることは出来ないだろうから、これを造れたのは、四国は既に日本の領域に入っていたのだろうか。そのように日本が勢力圏を拡大することを倭が許したのだろうか。それとも四国は倭の配下に入っていて、日本が出陣の準備のために逗留することと、斉明天皇が滞在する為に必要な施設を造ることを倭が許したのだろうか。
当時伊予には越智氏がいて、百済に出兵しているが、倭の一員として出陣したのだろうか。それとも倭の配下外の伊予の何某と言う国の軍として行ったのか。はたまた越智氏自身が伊予の何某国の主だったのか。越智氏は伊予皇子の末裔と称しているが、それは信用できるものではないが、越智氏も倭人であることに間違いはないだろう。だがいずれにしても今まで特に疑問も持たなかったことが、色々と判らなくなって来た。