久米官衙移籍群の主は誰だったのか
斉明天皇が伊予に逗留なさった時の施設と目される回廊状遺構は、その大きさが一町四方あり、当時の都である岡本宮に匹敵するので、朝廷の施設としか考えられないと見学会で担当者が説明していた。この遺構は割と早く壊され、その東半分が来住廃寺に取り込まれたらしい。こんなに大きいにも関わらず、短期間で取り壊された事実が行宮のような一時的な構造物であったことを物語る。この遺跡群は、回廊状遺構の隣に久米官衙移籍があり、少し離れた所に政庁跡があり、租税を納める正倉院跡がある。
ここの主は場所から考えて久米氏だったと推測される。この辺りは縄文時代から人が居住していた。卑弥呼の時代の国の一つと推測されている樽味四反地遺跡も、3〜4kmの距離にある。
このような政庁や官衙を備えていたのはどのような国だったのだろうか。魏志倭人伝にしるされたように、7世紀になっても倭国には属さない倭人の国だったのか。もしそうであるなら、久米氏はこの国の王だったのだろうか。樽味四反地遺跡は別の国だったのかそれとも?
斉明天皇が長期間逗留なさったのは、大和朝廷即ち日本と親しかったのか、それとも倭国と親しかったので、倭と日本との関係から日本の朝廷を受け入れたのか。
白村江の戦いでは倭国が手酷い損害を蒙ったが、日本国の損害は倭国程ではなかったように思われる。伊予の越智氏も敗戦で随分苦労した話が伝わっている。これから見ると越智氏は倭国と共に戦ったのではなかろうか。久米氏については話を聞いたことがないが、同じ伊予であるからには、越智氏同様倭国に近かったと推測する。
色々なことに少し手掛かりが見えて来た気がする。