法隆寺を誰が再建したのか

昨夜、NHKプレミアム・アーカイブスで法隆寺再建について、細部にわたって分析していた。最初の法隆寺は焼失し、今に残る法隆寺は再建されたものである。
所が、現在の法隆寺の建設は古い法隆寺が焼ける前に始まったと言う。日本書紀によると天智天皇9年(670年)法隆寺焼失の記述がある。ところが奈良文化財研究所が仏像が安置されている現在の金堂の屋根裏に使われている木材の年輪を高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影し、年輪年代測定法で木を伐採した年を割り出した結果、伐採は668年と判った。この木材は屋根裏に使われている板であることから、その木が伐採された時には建物の建築はかなり進んでいたと見られ、元の法隆寺の火災のかなり前から建築が始まっていたことになる。釈迦三尊像などに火災に遇った跡がないのは、これで説明できる。
ここで今一つ、別の問題がある。法隆寺再建と言うか立て直しと言うべきかは知らないが、その時期は国の存亡に関わる大変な時期と重なる。白村江の敗戦が663年。この敗戦の後九州から瀬戸内に防衛のための山城を幾つも築き、更に天智天皇は都を大和から近江に移し、そこの防備を固めた。法隆寺の再建はその時期と重なる。そんな時に大寺を建立する余裕など有ったのだろうか。天智天皇の前の斉明天皇の都である岡本宮法隆寺がら近い。放棄した都の近くで大寺の建立を続ける姿は、どうも想像しにくい。一体全体、法隆寺の立て直しは誰がやったのか。その時代の権力構造にも関係する問題と思う。