鷲尾三郎義久とは

福原合戦(通称一の谷合戦)で義経の道案内をした鷲尾三郎義久は、通説では地元の猟師の子と言われているが、これは完全な誤りと見て良いだろう。
当時、神戸市街地北側の山岳地帯は鷲尾党が支配していた。つい最近まで丹生の里、白川、多井畑に鷲尾家が残っていたが、これらの地は鷲尾党の根拠地であり、山岳地帯にはこれらの地を結ぶ連絡道が現存していた。箱木千年家で有名な箱木家は藤原氏の一門で、平安京が出来て直ぐ丹生の里に派遣されて来た。その箱木家は源平争乱時は鷲尾党の武将となっている。(これらについては神戸市郷土史学会の本に載っている。)
鷲尾三郎義久が猟師の子と言うのは平家物語の作者が本当のことを知らずに書いたか、創作したかの何れかであろう。真実は義経が鷲尾党を味方に付けることに成功したので、鷲尾党の案内で山岳地帯を踏破して福原の平家本陣の直ぐうしろの鵯越に達することが出来たと見るのが正しいと思う。鷲尾党が味方しなければこの山岳地帯を抜けることは不可能である。