「その時歴史は動いた『源義経 栄光と悲劇の旅路』」批判−その2

番組では平家が須磨「一の谷」に本陣?を構え、それを義経の本隊が西から攻めたと取れる図を見せていた。これが当時の地勢を如何に無視しているかを見てみよう。
昔須磨「一の谷」の西は、山から海に落ち込んでいて、海岸線は通れず、そのため当時の街道はもっと東で海岸線を離れ、内陸部に向かっていた。北側も山が海近くまで迫っていて平地は狭い。須磨「一の谷」の辺りは言うならどん詰まりの地勢だった。従ってそのような場所に本陣を構えるはずはないし、そのようなものを築く余地もない。平家がここを守っていたかどうかも疑問である。居たとしても哨戒線くらいのものであろう。
これを源氏の立場から見ると、一の谷を西から攻めるには山岳地帯を踏破し、急坂ないしは崖をそれこそ逆落とししなければならない。駆け下りたとしても態勢が整わぬうちに逆襲されたら、兵力を展開できずに狭い所でひしめき合って、攻めることも逃げることも出来ず壊滅しただろうと思われる。義経本隊は矢張り街道筋を中心とし、その近辺の山々に展開しながら平家軍に攻撃を仕掛けたと考える。
番組では義経の逆落としが須磨「一の谷」ではおかしいとまでは気が付いたようで、「鵯越の逆落とし」としたまでは良かったのだが、一の谷は本隊が攻めたと須磨「一の谷」に拘ったのが誤り。もう一歩突っ込めば正解に迫ることが出来ただけに、惜しかった。しかし、平家本陣が須磨「一の谷」にあったならば、義経の狙いを説明するのは不可能である。キーになるのは「一の谷」の場所である。