中国の民族性と日中関係

中国人の目から見た中国人と日本人の思考様式、価値観、人生観の違いについて、注目すべき見解に出会った。その要点を記す。

思考様式、価値観、人生観というものは、その民族の持つ特性、つまり民族性の表れである。『春秋穀梁伝』 によれば、孔子は『春秋』を編むに当たり、“尊者の為には恥を諱(かく)し、賢者の為には過(あやまち)を諱し、親者の為には疾(あしきこと)を諱す”という原則を立てた。
孔子朱子の教えは、日本では学問でしかなく儒学と呼ばれるのに対し、中国では宗教であって儒教とよばれる。宗教であるから行動規範もしくは道徳を課す。儒教の根本は忠・孝・礼・仁であるが、そのほかに“避諱”という重要な項目がある。孔子は『春秋』を編むに当たり、“尊者の為には恥を諱(かく)し、賢者の為には過(あやまち)を諱し、親者の為には疾(あしきこと)を諱す”という原則を立てたが、これが“避諱”である。
西洋の歴史研究者は歴史の真相を明らかにすることを歴史研究の任務と見なすが、中国の歴史研究者は国家の威信を擁護することを第一の任務と考える。中国の歴史学者の編算する史書では、“偉大で、栄光ある、いつも正しい”国家の形象を樹立するために、不都合な事実は隠蔽されるか改竄される。中国人にとって真実はさして重要ではなく、それよりも偉大な人物や国家や自民族の名誉のほうが重要であって、必要とあらば真実などはどこかへ放り出してそちらを護る。
出典:林思雲 「中国の民族性から見る中日関係――中国人の“避諱”観念と虚言」 原題:「従中国的民族性談中日関係――中国人的避諱観念与〔言荒〕言」
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この避諱の文化が、自国にとって都合の悪い事実は隠蔽し、他国のことは針小棒大に喚くことに繋がるのであろう。古来中国の史書は王朝が変わるとき、新王朝の正当性を主張するため、前王朝の末期を悪し様に言うのも、この避諱の文化の伝統に照らせば当然のことなのであろう。
現中国政権にとって前王朝に相当するのが日本であるなら、日本を悪し様に貶すことが、現政権の正当性を示す所以なのであろう。だが、この伝統は国際的には通用しない。避諱文化は中国と日本関係における衝突の原因となるだけでなく、それ以外の国家との関係においても少なからぬトラブルの原因となり、中国不信感の源泉となることを、中国自身が知らねばならない。