湯築城を藤堂高虎が使っていた?

愛媛新聞に、30日に西条市で開かれた西条歴史文化講演会で、三重大学藤田達生教授が「藤堂高虎と伊予」と題し講演したとの記事(ココ)。藤田教授は藤堂高虎と、同時期に伊予を支配した加藤嘉明との間に「強い軍事的緊張関係があり、嘉明が松山城を築いた当時、高虎が嘉明側を監視するため道後の湯築城を改修して重臣を送り込んだとする資料を紹介し、両者が一触即発状態になっていたと解説したとある。
この話は昨年の第三回歴史塾で聞いていたが、これが事実とすると、色々な面で見直しが必要となる。湯築城跡で出土した「土州様」と裏に書かれた土器は、高虎が土州様を迎えたときのものである可能性も出て来る。その土州様も1600年頃までの土佐守と考えていたが、もう少し後まで年代が広がる。
高虎が湯築城を手放した時期は、津に転封された慶長13年(1608年)か、或いは、その後も今治の近くの越智郡に飛び地として二万石を領していたらしいので、もっと後のことか、これを正確に突き止める必要がある。
いずれにしても面白い展開になって来た。
 
・参照記事

高虎と嘉明、緊張関係 新居浜出身三重大教授が講演
西条歴史文化講演会が30日、西条市神拝の市総合文化会館であり、三重大学教育学部藤田達生教授(53)=新居浜市出身=が「藤堂高虎と伊予」と題し講演。高虎と、同時期に伊予を支配した加藤嘉明との間に「強い軍事的緊張関係があった」と語った。
講演会は、地元の有志13人で組織する実行委員会(塩出崇代表)が5年ほど前から年6回開催。伊予の近世史に詳しい藤田教授を初めて招き、市内外の歴史愛好家約200人が聴講した。
藤田教授は1600年の関ケ原の戦い以後、高虎と嘉明が「ともに無名の家から出世したライバルで、考え方も異なるため険悪な関係だった」と指摘。嘉明が松山城を築いた当時、高虎が嘉明側を監視するため道後の湯築城を改修して重臣を送り込んだとする資料を紹介し、両者が一触即発状態になっていたと解説した。