中世美濃と尾張の境界

石野先生の講演資料の中の「中世主要地名分布図」に記載されている地名のうちから、尾張国境の「二木」「市橋」「茜部」がどのような位置であるか調べてみた。幸運なことにこの三つとも現在も地名として残っており、総て境川の右岸に位置している。
中世においては境川が木曾の本流であって美濃と尾張の境と言われているが、そうとするなら上記三つの地名は中世においても境川の右岸に位置し、境川との位置関係は現在と同じである。このことは、境川の規模は中世のそれより小さくなってはいるが、流路は余り変わっていないことを示す。濃尾平野の川の流れは変動が激しかったと推測されるのに、境川が中世から今に至るまで流路がほぼ同じと言うのは不思議な気もするが、流路を維持しようとする治水の努力などが作用したのだろうか。
境川が美濃と尾張の境であったとすると、岐南町笠松町羽島市などは、昔は皆尾張に属していたことになる。それが美濃に移ったのは、木曽川の本流が境川から現在の木曽川に変わった後の出来事のはずだが、その時期は知らない。なお、現在の木曽川天正十四年(1586年)の大洪水で出来たと言う。本能寺の変の4年後に当たるので、信長は現在の木曽川を見ていないことになる。中世から戦国期の濃尾平野の歴史を考えるに際し、木曾川の変動をしっかりと認識しておくことが必要である。