湯築城拡張前の姿
湯築城の変遷について定説はないが、三段階と見るのが至当であろう。第一期は南北朝争乱期に南朝勢力の強い道後平野に北朝方が楔を打ち込むための軍事拠点、即ち今の言葉で言えば橋頭堡の段階。第二期は内堀及び内堀土塁を築いて城としての機能を整備した段階。第三期は外堀と外堀土塁を築いて拡張し、二重掘を具えた平山城とし居住空間を内部に有する中世城郭としては類の無い構造に整備した段階。
第三期は今にその姿を残すが、その前の段階は正確な姿が判然としない。また、三期に分ける見方にも異論があるかも知れない。しかしここを軍事拠点としたのは戦乱の最中であり、敵方の勢力圏内で大工事が出来るはずはなく、地勢を利用して、殆んど工事を行うことなしに軍事拠点化したと考えるのが妥当であろう。その後長期間を掛けて整備し、河野氏が本拠としたのは1400年前後で、これ以降を第二期と見たい。
では第二期はどんな姿だったか。それを記した資料が残っていないため、発掘調査で判ったことや、推測される当時の地勢などから論理的に推測するしかない。
長い間考察を重ねた結果、城の北側はほぼイメージを明確に出来たと思う。それを図にする作業をしなければならないのだが、力を貸して貰える人を探さねばならないが、誰かいないものか。