所謂「ら抜き言葉」について

今日『「ら抜き」初の多数派=「見れた」「出れる」−国語世論調査文化庁』と題する記事が有った(ココ)。この記事では「ら」が入って居ない言葉遣いを「ら抜き言葉」と言い、入って居る場合を正しい言葉と称している。お役所らしい決めつけだ。今日の記事では最近その「ら抜き言葉」の方が多くなったと言う。
子供の頃を振り返って見ても、「ら」を入れていた覚えがないし、「ら」を入れない方が意味の混同の惧れがなく明確であり、更にもう一つ、これが決定打になると思うが、「ら」を入れない方が言葉の活用を一義的に整理できる。
「ら」を入れた活用形を用いると、例えば「見られる」「来られる」と言われたら、それが可能か受け身か丁寧表現か区別が出来ない。「見れる」「来れる」なら可能を示す言葉と明瞭に判る。言葉の活用形と言う観点で考えても、「ら」を入れない方が総て例外なしに統一出来る。
特に活用形を考えた場合、「ら抜き」の方がすっきりするので、こちらが本来の形であり、いつの時代からか知らないが次第に「ら」を入れるようになり、今また「ら」を入れない本来の形に戻りつつあるのではないかと思う。
それにしても文化庁が「ら」を入れた方を「正しい言葉」と言うのは、いかにもお役所らしい決めつけだ。もし「ら」を入れない方が古来の形であったら、「ら」が入らないほうが正しく、入れた方は「ら入り言葉」と言わねばならぬ。頭の固い役人の独善はお止めなさいと言っておこう。