長府では来島通康を河野氏と認識?

長府では長府藩の祖・毛利秀元の母が河野出雲守通康の息女と記しているらしい。(談話室ゆづき#3081参照)
通康を河野通康と言うのは、通康が河野氏であると認識していることを意味する。これは驚きである。何に基づいているのか。河野氏との認識の根拠は何か。是非とも知りたいものである。
河野氏関係の書には載っていないことであるが、毛利氏の方でそのような認識があったのだろうか。あったとすると、それは何故か。通康が弾正少弼通直の庶子であるとの説は、近年出たばかりで、まだ学会で承認されていない。ところが長府では以前から通康を河野氏と捉えていたとすると、その理由は何か、疑問は大きい。

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