既成概念の打破は悪か?

某ブログの記事「独裁に必ずブレーキを掛けてきた日本人」にはいささか驚いた。そこには司馬遼太郎の言葉を引いて、「日本民族はトップ一人による独裁を非常に嫌悪し、行き過ぎた独裁をその政治観に基づいて必ず排除する。そして日本人に好まれる指導者と言うのは、家臣に一定の権限を与え信任し、自らはそれを大局的に判断し決済を行なう人物のようだ」と述べている。ここまではまあまあとしてもその後、「司馬氏の分析する日本民族の政治観に真っ向から反発(独裁による支配)をした人物は悉く排斥されている」と続き、「ある時は集団的暴走を止めるだけの求心力を持ったリーダーが不在だったため、満州事変から第二次世界大戦へと破滅の道を歩んでしまった」のを負の部分と認めながら、「またある時は織田信長のような既成概念が通用しない支配者を抹殺した」のを自浄作用を発揮した正の部分とみなしている。そして最後に、「破壊の限りを尽くした織田信長は、結局日本人の良識ある判断によって抹殺されたのであり、今話題のあの独裁者も、日本人独特の政治観によって排斥される日が来るのかもしれない。」と結んでいる。
この言説は「既成概念を壊すことは悪」とする主張である。守旧派が善で改革派は悪であろうか。呆れた主張と言わざるを得ない。
およそ信長が破壊の限りを尽くしたと見るのは皮相的に過ぎる。信長が壊したのは時代の変革を妨げる守旧派とその牙城である。信長は守旧派を叩き、原理主義を潰したことによって政教分離を果たし、日本の近世への扉を開いたのであって、これは日本の将来の下地を作った大きな功績である。それを破壊の限りを尽くしたとか、単なる独裁者としか見れないのは淋しい。翻って現在の日本を見るに、今、守旧派を一掃出来なければ将来は暗い。小泉首相に頑張って欲しい。