阿波と讃岐の二つの富田庄

承久の変の後、河野通信は所領を没収されたが、通信と北条時政の娘谷(やつ)殿との間の子、通久は幕府方で戦い、その功績により阿波国富田庄を賜ったと豫章記に記されている。ところがさぬき市歴史資料館所蔵の大川郡史の記事に、「豫章記に讃州富田庄を賜ったとあるので」と書かれている(喫茶室の記事「讃岐の国の富田の庄。土居とは」を参照)。豫章記を確かめればすぐ判る誤りだけに、これを書いた史家は軽率の謗りを免れない。
不思議なのは阿波と讃岐の国境を挟んで両側に同じ名の庄が存在することである。何か謂れがあるのだろう。或いは、富田庄は元々二つの国に跨る大きな庄だったのだろうか。興味のあることで、調べてみる価値がありそうだ。