銀座も江戸時代初期に埋め立てた土地だった

昨日、日本橋や銀座の昔の状態を知りたいと書いたら、今日、それを教えて呉れる記事が出た。「銀座に川ができる!? 五輪に向けた東京大改造計画の中身とは」と言う記事で、その中に「水の街であった銀座を復活させようという動きがあるらしい。もともと銀座は江戸時代初期に埋めたてられた“人工の島”であり、川に囲まれていた。」と記されている。
推測していた通りだった。つまり江戸城の東側は低湿地帯で、その先は直ぐ海だったということだ。それだけじゃない。利根川や荒川など大きな川が東京湾に注ぎ、関東平野には湿地帯が大きく広がっていた。隅田川はまだ大川と呼ばれ、その東は、当然ながら湿地帯で通ることが出来ず、東の国に行くには船で房総半島に渡ってから北上することとなる。そのため船が着く南側が上総となり、武蔵の国に隣接する近い方の北側が下総となった。京に近い方が上、遠い方が下であるべきなのに、上総と下総は上・下が地図上の位置関係とは逆になっているのは、このためである。
この状態では東海道はまだ機能する筈がない。家康が日比谷の埋立や利根川の付け替え工事をした理由が、やっと実感として理解出来た気がする。日本橋や銀座、更には浅草などは、今の賑わいからは想像もつかない悪条件の土地だったのだ。まして隅田川の東に人が住むようになったのは、明暦の大火以後のことではないか。この大火の後、両国橋などが架けられたと言う。1661年のことだ。両国橋の意味は武蔵と下総の二つの国に跨って架かる橋と言うことらしい。ということは、本所や深川が江戸に入るのはもっと後のことか。
明暦の大火の後、この火災で亡くなった人を弔うため、両国橋を渡ってすぐの南側に回向院が建てられた。後にその東に吉良邸が移転させられた。浅野内匠頭の刃傷事件のちょっと後のことである。これについては後日纏めてみたい。
(注)明暦の大火とは明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。