歴史の謎は実に不思議

歴史は実に興味深い。日本の歴史に限っても、不思議な点は幾つもある。先ず国の誕生に関わる神武東征記もあながち嘘と言い切れない点がある。
大昔に河内湾なる湾が存在していたことは今では知られた事実である。神武東征記をその河内湾の存在を前提として見直すと無理なく理解できる。また河内湾が埋まってしまった後世に、河内湾を知らない者があの物語を創るのは、絶対に不可能であろう。そう考えると、神武東征記は河内湾が存在していた時期に実際に有った史実と仮定すると、その時期はBC500年ころと考えることができ、昭和15年を皇紀2600年とすることがそれ程大きな間違いではないように思えて来る。
このように考えると、また別の問題が生じる。魏志倭人伝には、倭と邪馬台(壹)国が記されている。従来この両者をごっちゃにしていたが、倭と邪馬台(壹)国は別の国との主張がある。その論では魏志倭国伝でなく倭人伝であり、倭人の国を判る限り記しているとし、倭国の記述の後、倭人の国を色々と記し、その中に邪馬台(壹)国も記述したと述べている。これは旧唐書などの記述とも合致し、妥当な論と思われ、纏向遺跡が邪馬台(壹)国とする主張を無理なく首肯できる。
倭人伝によれば、邪馬台(壹)国は女王が統べていると記されているが、この女王は神武朝の女性天皇か、神武朝とは別の勢力の女王なのだろうか。旧唐書とそれ以降の史書の記述から考えると、邪馬台(壹)国は日本国に繋がるように思われ、そうであるなら邪馬台(壹)国の女王は神武朝の天皇となる。だがこれを解明することは殆んど不可能であろう。
こう考えて来ると松山に残る卑弥呼の時代の国の遺跡と考えられている樽味遺跡は、3世紀の倭人の国の一つと考えて差し支えないだろうが、その少し南の久米官衙移籍群の主、多分久米氏と思われるが、その氏族と大和朝廷との関係はどうであったのか、倭に従ったのか斉明天皇の日本に従ったのか、興味あるテーマである。そしてまた、白村江の敗戦は日本でなく、倭であった可能性が高いと考えられる。この敗戦の打撃で倭は衰え、大和の日本が主導権を奪ったのではなかろうか。
一つのことから次々と疑問が生じ、色々と発展するのが面白い。