中国の歴史書に見る「倭」「日本」(心覚えに記す)

編集
倭・倭人関連の中国文献

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%83%BB%E5%80%AD%E4%BA%BA%E9%96%A2%E9%80%A3%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%8C%AE

1.旧唐書

旧唐書』本文
日本について『倭国』と『日本国』の条がある。「日本」の名称に関して次の記述がある。
倭國者古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國 〜
日本國者倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地
— 『舊唐書』 東夷伝 倭國[9][10]
日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。 或いはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。 或いはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり、と。
倭国は「自らその名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み」名を改めたと読める。また、北宋時代に再編纂された『新唐書』においても同様の記述があるが、新唐書においては「日本という小国を倭があわし(合併し)その号(日本の名)を冒す(名のる)」とする記述がある。

2、漢書

漢書』(前漢書ともいう)の地理志に、
「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。
書や記事について
楽浪郡は、前漢(紀元前202年-8年)の武帝が紀元前108年に衛氏朝鮮の故地に設置した漢四郡の一つである。その役所は、今日の北朝鮮平壌付近にあった。漢四郡とは、真番郡玄菟郡楽浪郡・臨屯郡をいう。中国の史書倭人の国のことをはじめて書いたのがこの『漢書』地理志である。楽浪の海を越えた所に百余国に分かれた倭人の国があった。中国人の目には、「国」として映っていた。弥生中期の後半(紀元前1世紀頃)に当たっている。
撰者について
班固が後漢の初め頃に編纂した。

3.後漢書
後漢書』本文

後漢書』「東夷傳」
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う
倭奴国の王は、出先機関楽浪郡にではなく、使者をはるばる後漢の都の洛陽にまで派遣していた。 授けられた金印(倭奴国王印)は、江戸時代に博多湾志賀島で掘り出されたものとされ、現存する。「漢委奴國王」と刻印されている。三宅米吉はこれを漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王と読んでいる。また、委奴を「いと・ゐど」(伊都国)と読み、漢の委奴(いと・ゐど)の国王と読む説もある。
しかしながら、そのような日本の読み方の如何に関係なく、かの漢字文化の本家では、どのように解釈していたか、と言えば。
『北史』倭国
安帝時、又遣朝貢、謂之倭奴國。
安帝の時(106−125年)、また遣使が朝貢した、これを倭奴国という
『隋書』倭国
安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國
安帝の時(106−125年)また遣使が朝貢、これを「倭奴国」という
旧唐書倭国・日本国伝
倭國者、古倭奴國也。
倭国とは、古の「倭奴国」なり)
と、「倭奴国」という国名の固有名詞として、後の「倭国」の呼称の意、としていた。
中国の史書倭国が現れたのは、『後漢書』の安帝紀の永初元年(107年)の記事が初めてである。
「冬十月,倭國遣使奉獻。辛酉,新城山泉水大出」

旧唐書
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%94%90%E6%9B%B8

旧唐書東夷伝の中には、日本列島について、「倭国伝」と「日本国伝」の二つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷[2]」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地[3]」とあり、日本は倭国の別種で、もともと小国であった日本が倭国を併合したと記述されている。そして、宋代初頭の『太平御覧』にもそのまま二つの国である旨が引き継がれている。これについては、編纂過程の影響であると考えるのが日本における通説である。異論も存在していて、例えば、森公章は「日本」の国号成立後の最初の遣唐使であった702年の派遣の際には国号変更の理由について日本側でも不明になっており、遣唐使が唐側に理由を説明することが出来なかった可能性を指摘する[4]。大庭脩は、これを単なる編纂過程のミスではなく「倭国伝」と「日本国伝」の間の倭国(日本)関連記事の中絶期間には、白村江の戦い及び壬申の乱が含まれており、当時の中国側には、壬申の乱をもって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したという見解が存在しており、結論が出されないままに記述された可能性があると指摘している。

 日本側の見解は大和朝廷一元論の捉われ過ぎている。素直に九州王朝とそこから派生した大和朝廷があったと解すれば良い。白村江で戦ったのは九州王朝であり、それに敗れて衰退し、後に大和朝廷に負け、併合されたのであろう。磐井の乱(527年)の名で伝わる戦いが、九州王朝滅亡の最後の戦いであり、倭の五王も九州王朝の王であったと考えれば無理なく理解できると考えていたが、これでは年代が合わない。白村江の戦いの後に、九州と大和の戦いがもう一つあったなら、それが止めの戦と理解できるのだが、九州王朝の滅亡はもっと早かったと考えるべきなのだろうか。