道後地区の遺跡は何を語るのか

昨日の説明会によると、道後湯之町の遺跡は4千年前の縄文後期から晩期に掛けての遺物、2千年前の弥生時代古墳時代の遺物が出土していると言う。2千年前から古墳時代に掛けての時期は、倭国と日本国が並立していた時代で、道後の南、石手川を渡って直ぐの一帯に存在した樽味遺跡の時代に相当する。
樽味遺跡は卑弥呼の時代の外交権を持った国だったのではないかと言われている。道後湯之町遺跡の時代はその国の一部だったのだろうか。魏志倭人伝にも卑弥呼の国から東千余里(約80km)に倭種の国があると記されている。それが樽味遺跡として残る国だったのだろうか。樽味遺跡は国の中枢であるのに対し、道後湯之町遺跡は一般人の日常活動の跡を示す遺跡である。この両者が一つの国を構成しいたのであるなら、当時の国の構成や一般庶民の生活などが広がりを持って理解できるようになるかも知れない。
倭国と日本国が並立していたとして、樽味遺跡の国はどちらに近かったのだろうか。地理的には倭国の方が近い。しかし唐の時代には百済救援に出陣する前、斉明天皇が樽味遺跡の少し南の久米官衙遺跡群の地に暫く滞在なさった形跡があることを考えると、その頃には日本国に近かったとも考えられる。
簡単に確定できないだけに、色々と考えを巡らし推測を逞しくするのは、歴史の醍醐味である。