湯築城跡保存運動を決着させた加戸守行前愛媛県知事

 中世の名城「湯築城」跡を守ろうと孤軍奮闘していた「湯築城跡を守る県民の会」にとって、加戸前知事には忘れがたい思い出がある。かって道後公園湯築城跡)にあった動物園を砥部に移し、県はその跡に日本庭園を造ろうとしていた。その計画が発表されたのが1988年。その翌年1989(平成元)年に行政の義務である事前調査(行政発掘)が始まった。湯築城跡は松山城築城の際に破壊されたと言う伝承が残っており、従って発掘調査しても殆ど何も出て来ないと思われていた。所が調査が始まると予想に反して遺構・遺物が良好な状態で出るは出るはで、研究者は勿論、世間を驚かせた。そこで早速愛媛大学の先生方を中心として、この貴重な遺跡を保存しようと言う動きが起こった。これが後に「湯築城跡を守る県民の会」に発展する。
 当時の伊賀知事は、翌年の2月に日本庭園計画を白紙撤回した。これは国の資金援助も決まっていたのを返上してまで計画を中止したのであるから、当時としては大英断と言うべきであろう。しかし、遺跡を保存すると言う一言が出ず、保存運動が延々と続くことになる。
 そして1999(平成11)年の知事選で加戸さんが当選し、就任早々に湯築城跡を永久に保存し、史跡指定を申請すると発表したのである。実はこの選挙で伊賀さんが当選したら、湯築城跡の保存は望み薄だろうと悲観的空気が漂っていた所だったので、夢かと驚き、飛び上がって喜んだのであった。それまで我々「湯築城跡を守る県民の会」は行政に盾突く不届きな集団と散々叩かれてきたのに、状況が一変し、その後湯築城跡の整備が終わり、開園の式典における加戸知事と教育長の挨拶の中で、「湯築城跡を守る県民の会」の協力に対する謝辞が述べられ、隔世の感を覚えたのであった。  
 加戸さんが知事になっていなかったら、今頃湯築城跡はどうなっていたか、寒気を覚える。今は国史跡に指定され、国の重要文化財となり、日本百名城に選ばれている湯築城跡も、一歩間違えば姿を消す寸前であった。加戸さんが知事になったのが運命の分かれ道であった。最後に伊賀知事は湯築城跡の価値を本当は判っていたのではないかと言う気がする。伊賀知事は湯築城跡を残すとの一言を最後まで言わなかった。それは自分の支援団体との関係から言いたくても言えなかったのではないかと思う。加戸さんが知事就任して直ぐ湯築城跡の整備を発令したが、その整備計画は伊賀知事の時に造られたものである。伊賀さんは整備計画をつくったものの、Go!を発令出来ない事情があったのではなかろうか。これは推測であって真偽はどなたか検証して貰いたい。
 加戸知事の思い出を長々と書いてしまったが、湯築城跡の保存運動の経過は『湯築城跡保存運動を振り返って』に纏めてある。