高知新聞の元親は四国統一できずの記事

昨日高知新聞が報じた「元親は四国統一できず!?」と言う記事があちこちで話題になっているようだ。
元親が四国統一は達成寸前で秀吉の四国攻めに遭い、頓挫したことは既に常識と思っていたがそうではなかったらしい。記事の中で紹介されている藤田教授の論文は、発表されたのが1991年だから19年前。我々が湯築城の保存運動をしていた時、川岡教授に長宗我部氏は湯築城まで来たかお尋ねし、来ていないと説明を受けたのが十年以上前のこと。その時先生は、研究者の間では元親の四国統一は成就しなかったと、見解はほぼ一致していると仰った。更に、長宗我部との攻防戦に関係する感状などの史料がそれぞれ残っているのに、湯築城での戦いを示す史料は見つかっていない。当時湯築城には小早川氏の家臣が常駐していたにも拘わらず、小早川氏の文書にも一切存在しないので、長宗我部勢が湯築城まで来たと言うことは出来ないと言う説明だった。
高知新聞は更に湯築城で出土した瓦と墨書土器について報じているが、その報道は正確さを欠く。瓦は岡豊城、中村城の瓦と同笵であることは正しいが、それを以って長宗我部氏にかかわる瓦と言う見解はおかしい。以前高知の歴史民俗資料館の館長さんが湯築城でその瓦をご覧になり、その場で「この瓦が土佐から来た可能性は全く無い。当時土佐には瓦を焼く窯は無かった。従ってこの瓦は泉州かどこかで焼いたものが三つの城で使われたと見るべきである。」と見解を表明された。その見方が正しく、論理が通っている。同笵瓦であることは産地または版木が同じであることを示すだけで、長宗我部氏に関わる瓦と見るのは論理の飛躍であり、手前勝手な独断に過ぎる。
土州様と書かれた墨書土器についても同様で、土州様が元親を示すと見るのはこれも論理の飛躍であり、独断に過ぎる。土州様とは土佐守様という意味で、その土佐守が元親であるか他の人物であるか、これだけでは断定できない。当時四国には元親ともう一人土佐守が居た。小川祐忠で、慶長3年伊予今治7万石を与えられ、国府城を居城とした。他にも居るかもしれない。出土した墨書土器はその中の一人が湯築城を訪れたことを示すのみであり、それが元親であるか、他の人物であるかについては何も語らない。
記者であるなら、もっと論理の通った記事を書かねばならぬ。こんな論理の破綻した記事を書いては、記者失格である。
 
【追記】長曾我部元親が土佐守を貰ったのは1588年に聚楽第で秀吉からである。小早川隆景に降伏し湯築城を明け渡したのは1585年。従って墨書土器に書かれた土州様が元親であるなら、元親は湯築城開城後に来たことになる。