倭國と邪馬臺國と日本に関する見解の進展

 従来魏志倭人傳の倭國と邪馬壹(臺)國を同一と見做し、その女王が卑弥呼であると読んでいた。そしてその邪馬壹(臺)國の位置について九州か大和かと論争が続いていた。
 所が近年に至り、倭國と邪馬壹(臺)國は別の国とする説が出始めた。なんでこれに早く気が付かなかったのかと盲点を衝かれた感がする。この説も二つに分かれ、一つは邪馬壹(臺)國は倭國ではないが、九州に有りとする説。もう一つは邪馬壹(臺)國は大和に有り、後の日本とする説である。こちらは纏向遺跡が邪馬壹(臺)國と考える説に繋がる。この両者とも倭と日本は別であり、倭は九州、日本は大和にあり、どちらも倭人の国とする点は同じである。
 魏志倭人傳を読むに当たり、後漢書も随書も旧唐書も倭國傳であるのに対し、魏志のみは人傳である。従って魏志では倭國以外の倭人の国々についても記述していることを強く意識すべきであった。魏志倭人傳で邪馬壹國は女王の都する所と記されているので、この女王を卑弥呼と同一人物と早や合点してしまい、邪馬壹國とは卑弥呼の国の名と錯覚したのがとんでもない間違いだった気がする。
 卑弥呼は金印を貰っているが、それは「親魏倭王之印」であり、「親魏邪馬壹國王之印」ではない。これを何故と疑えば邪馬壹國は倭國なのかと疑問を抱く筈である。
 倭と日本が別の国であることは、旧唐書の倭國傳とは別に日本傳があることからも頷ける。その日本が魏の時代には邪馬壹國であったとするなら、話はすっきり繋がるのだが、この点はまだ判然としない。倭と日本が別の国とすると、従来の定説が幾つも崩れて来る。第一に「日出國の天子、日没する國の天子に・・・」と記した国書は聖徳太子でなく倭國王が書いた物ではないかと言う疑問である。第二はかの白村江の敗戦は、日本でなく倭國の史実ではないか。第三は倭の五王は日本の天皇でなく、倭國の国王ではないか。第四に磐井の乱は単なる豪族の叛乱でなく、日本と倭國の戦いではなかったか。まだ色々とあるが、大きな点だけ挙げてもこんなに疑問が出て来る。魏志倭人傳の解明は日本の古代史を明らかにする上で、矢張り重要なテーマであることは間違い無い。