子供心に感じた疑問がやっと解けた

国史で白村江の敗戦の後、天智天皇が近江に防衛線を敷き、守りを固めたと習った。中学だったと思うが、自信はない。小学校だったかも知れない。
授業でこれを聞いた時、何故九州でなく近江で防備を固めたのか不思議に思った。近江で守りを固めるとは近江の西は領地ではないのかと疑問に思い、その疑問は長く解けなかった。今になってやっと、子供心に感じた通りだったと、明確に理解できた。
実際には朝鮮式山城があちこちに築かれ、今も残っているので、各地で防備が固められたのだが、そんな話は後年まで知らなかった。だが倭国通史の論じる内容から考えると、各地で防備を固める中で、大和朝廷の防衛線が近江に敷かれたのは当然のことだったと思う。だがそうとすると各地で防備を築いたのは誰か、倭国通史を読んでも答えは判らなくなってしまった。倭のはずはないが、大和朝廷でもない。当時の倭人諸国がそれぞれ防備を固めたのだろうか。それにしては九州に朝鮮式山城が多いのは何故か説明が難しい。一つ判ると三つ疑問が出るとは良く言ったものだ。