2009-03-01から1ヶ月間の記事一覧

一条氏の終焉

一条氏は笹ヶ峠合戦があったとされる天正2年(1574年)以前に、事実上は滅亡していたらしい。形式的には、慶長四年(1599年)元親が死去し、翌年の「関ヶ原の合戦」で長宗我部氏が没落したことで、自由の身となった政親が土佐を去ったことで、土佐…

長宗我部元親はいつ土佐守になったのか

官位のことは良くは判らないが、元親は「宮内少輔、土佐守」と記されている。ではいつ土佐守に補任されたのか。あちこち調べたが判らない。天正二年(1574年)時点で土佐守だったのか。この頃、永禄十一年(1568年)の鳥坂山合戦で大きな損害を蒙っ…

笹ヶ峠合戦か一丁原合戦か

天正2年(1574年)に起こったと伝えられている笹ヶ峠合戦を、大洲地区の古記録は一丁原合戦と伝え、久万町の大野氏古記録では笹ヶ峠合戦と記しているらしい。戦いの名称に付けられた地名は、一般に戦いが展開された地の名前である。伝える地域によって名称…

大野ヶ原の昔の姿は

笹ヶ峠合戦を考えるに際し、当時の大野ヶ原が今と同じではないことを念頭に置かねばならぬ。つい今の状態を前提に考えがちだが、とんでもない間違いを犯す危険がある。昔の大野ヶ原は今のような草原だったのだろうか。大野ヶ原は戦後開拓の手が入り、松の木…

大野ヶ原のシャッポ

大野ヶ原を人体に譬え、大野ヶ原小学校の有る区域を頭部とすると、小さな川を挟んだ西側の区域はシャッポと見れる。ここが一丁原ではなかろうか。標高を仔細に眺めると、頭部が一番低く、シャッポは胴体部とほぼ同じ。頭部は中央部が凸の盆地状になっている…

笹ヶ峠が意外な場所に

「四国カルストへ行こう」というサイトを見ていたら、意外な所を笹ヶ峠と記していた。大野ヶ原を人体に譬えると、惣川・羅漢穴から来た場合、大野ヶ原の取っ掛かりの部分、大野ヶ原小学校のある所が頭に当たり、その東が胴体となる。頭と胴体の間は南北から…

一丁原の候補地を発見

地形図で各場所の標高を調べると、惣川から来る道は、大野ヶ原の手前で大野ヶ原より僅かだが低くなり、そこからは十分な見通しが効かないことが判った。笹ヶ峠を見渡せる場所は無いか探したら、一ヶ所ある。それは柾小屋から通じる道を出た所で割りに平坦な…

惣川土居邸へ行った帰路、羅漢穴の傍を通っていたとは

何年も前墓参の帰りに惣川土居邸と大野ヶ原に寄って戻ったことがあった。笹が峠合戦を伝える話に出て来る地名を調べていて、惣川から大野ヶ原へ抜ける道の途中で羅漢穴の近くを通っていたことに気が付いた。簡単に近寄れる所ではないらしいが、知っていれば…

夜帰宅したらメールが

一日外出していて、帰宅したらKさんからメールが来ていた。返事は明日にする。 談話室ゆづきはこの所笹が峠合戦の場所追及で投稿多し。種々の断片情報を個々に分析して行くと、総てを統合することは不可能となり、どこかで破綻を来たすと予想していたが、案…

柾小屋の位置判明

柾小屋の場所が判った。柾小屋は昔は集落があったが、今は無人。柾小屋渓谷の地形をGoogleで見ると両岸が切り立ったような崖。素晴らしい景観。国土地理院の地形図では等高線が狭い間隔で並んでいる。柾小屋で左折と言うのは、川を渡る場所がそこしかないこ…

ほうじが峠の塚の位置確認

ほうじが峠の塚の写真と地図が喫茶室にアップされた。塚は昔の道の傍に作られているとのことで、大川からほうじが峠に至る往時の道が良く判った。こういうことは地元に人に聞いて初めて判ることで、地図を見るだけでは中々判るものではない。 大正14年の愛…