歴史
琉球大の池田栄史教授(考古学)は24日、長崎市内で会見し、元寇(弘安の役、1281年)で沈んだ元の軍船とみられる写真を公開。船底の背骨に当たる木材の竜骨(キール)や、整然と並ぶ外板が確認できる。元の軍船が、構造が分かる状態で発見されたのは…
N先生と話ている所にガイドさんが質問にやって来た。質問の内容は詳しくは判らないが、断片的に聞える話からの推測だが、湯築城を造ったのは通盛ではないのかということだったようだ。N先生が、湯築城を造りそこで最初に戦ったのは、北朝方に間違いはない…
藤田教授と柚山氏の見解には、大いに共鳴出来る点と若干疑問を感じる点がある。それを考察するための資料として、松山城築城に関連する出来事を年表形式に纏めておく。 ・関ヶ原合戦 慶長5年 1600年 ・加藤嘉明、松山城の築城開始 慶長7年 1602年 …
昨日の愛媛新聞の道標欄に三重大学の藤田教授が、秀吉が四国を攻撃した天正13(1585)年からから八藩体制が固まる寛永年間までの約一世紀の間の、伊豫の城郭群について興味ある見解を述べていらっしゃる。その中で湯築城についても思いもよらぬ見解が記さ…
山内譲氏の論文に掲載されている地圖と、現在の国土地理院の地圖と、Google mapを突き合わせて、論文に出て来る久米良郷内の地名を全部特定できた。 この久米良郷は承久の変の後、金澤氏が領し、地頭代を置いていた。後、理由は判らないが大佛氏が領有し、鎌…
道後平野にかって大森氏が居た。その由来を調べると注目すべき事実が浮かんで来た。 伊豫の大森氏は清和源氏から出ており、元は下総の大森に住したことから大森を名乗った。承久の乱に際し功があり伊豫国に所領を得て一支族が移住し、高井を拠点とした。その…
台風15号の影響で、鬼北町中野川の国史跡「等妙寺旧境内」の遺構の一部が、土砂崩れにより埋もれる被害に遭った(ココ)。 鬼北の国史跡に土砂 台風15号被害 20日から21日午前にかけ県内に接近した台風15号の影響で、鬼北町中野川の国史跡「等妙寺…
佐々久山・佐志久原・世田山・永納山近辺の地勢をGoogle Earthで眺めると、世田山城が国府を守る最後の防衛線であることが良く判る。古代の城である永納山城はその隣。こちらは海を強く意識した場所。城は皆良い所に築かれている。
【一昨日同じ題名で書いたが、纏まりが悪いので書き直すことにした。今度は上手く纏められるか?】 元弘3年(1333年)に鎌倉幕府が倒れた後、北条氏の残党が各地で叛乱を起こした。中先代の乱と言われている。伊豫においても赤橋重時が建武元年(1334年)に風早…
山内譲氏の論文と喫茶室の議論から、承久の変後の道後平野の状況が朧気ながら見えて来た気がする。纏まりの悪いものになるだろうが、少しずつ我が推測を書き記すことにする。 結論を先に言うと、幕府方は承久の変で勝利し、伊予における通信の所領を没収した…
先日西尾先生から頂戴した論文に関連する場所の3D図をGoogle Earthで作成し、それを見ながら、鎌倉時代から南北朝初期の伊予の情勢について色々と意見を交換した。
・延元元年/建武3年(1336年)この前後に尊氏、所領安堵状を通盛に与える。(通信時代の所領回復) 尊氏・直義、兵庫湊川で義貞・正成を破る。正成戦死。 ・正平5年/観応元年(1350年)、尊氏らが養子足利直冬を討つために中国地方へ遠征すると、その留守に…
西尾先生から頂戴した山内論文によると、久米郡は金沢氏が地頭職を有し、久米郡の名や保の地頭代に家臣らを当てていたようだ。なお久米良郷は大佛氏の支配下に移ったようでが、鎌倉幕府滅亡のちょっと前のことらしい。 金沢氏は武蔵国にある菩提寺称名寺ゆか…
海遊庵主さんが、赤橋駿河守宗時とその子の駿河太郎重時が北条氏の代官として来て居たと記載されていると投稿。以前何で見たのか覚えがないが、それには風早郡でなく、ずっと東の山岳地帯に代官として居たと書いてあったと記憶する。 だが、中先代の乱の時恵…
面白い記事を見つけた。大友氏の遺跡から出土した鉄砲玉の鉛の原産地は、タイのソントー鉱山だったことが解明されたと言う。これは凄いヒントになる。今度N先生にお会いしたときに私見を聞いて貰い、ご意見を伺おう。
昨日年表風に鎌倉幕府滅亡から十数年間を、伊予の動きに関係する事柄を整理した。鎌倉幕府滅亡時に河野通盛は幕府側に立ち、六波羅防衛軍の中心となって奮闘した。この戦いで河野一族の得能氏と土居氏は倒幕側に立った。これを一族が二つに分かれて相争った…
昨日峰翁祖一に絡んで、赤橋重時のことが話題になった。鎌倉幕府滅亡後の伊予の動きを眺めると、いろいろと疑問が湧いて来る。 ===================================================== 1333(元弘3年) 赤松円心、播磨に挙兵。円心、六波羅を攻めるが失敗。 …
今日は愛媛大学寺内浩教授の「湯築城以前・古代の道後」で、湯築城がまだ存在しない時代、古代の道後の解説。話の内容は個々には知ってはいたが、断片的な知識に過ぎなかったのが有機的に繋がり、非常に有益だった。 講演が終わった後、二つお尋ねした。第一…
湯築城跡で「土州様」と墨書された土器が出土しているが、この土器が出土したことは、ここで「土州様」を交えた宴席が設けられたことを意味する。問題は「土州様」とは誰か。次にその宴席が設けられたのはいつか。この二点を先ず明らかにしなければならぬ。 …
海遊庵主さんから電話あり、長宗我部元親が土佐守を拝領したのは天正16年(1588年)で、聚楽第で秀吉から貰ったとのこと。 笹ヶ峠合戦(天正2年、1574年)の前に元親が送った書状に長宗我部土佐守元親とあるが、土佐守を貰うのはずっと後のことなので…
先にミイラ二体が破壊されたが、その後破壊を収まったものと思っていたが、今度はツタンカーメン像が壊された由(ココ)。世界に誇るエジプトの遺産。一旦失われたら二度と戻らない。自重を望みたい。 【参考】 ・ツタンカーメン像 ・egypt 提供: ニュース速…
昨日JB Pressの『なぜ日本人の対中親近感は急降下したのか 実は昔と何も変わっていない中国〜中国株式会社の研究(92)』と題する記事を読んでいたら、最後近くに、『第2次大戦中、日本は敵国である米国や英国を「鬼畜米英」と呼び、英語教育を中止して、一…
長岡京の最初の内裏跡と見られる回廊柱穴が発見された(ココ)。先日牽牛子塚古墳に隣接する越塚御門古墳の発見が発表されたばかり。このような歴史上の発見が一つ報じられると、不思議と発見が続く気がする。
伊豫と縁の深い斉明天皇(594〜661年)の墓であることが確実視されている奈良県明日香村の牽牛子塚古墳(7世紀後半)の隣接地から、孫の大田皇女(おおたのひめみこ)の墓とみられる古墳が見つかり、村教委が9日発表した(ココ)。 日本書紀には、斉…
奈良の牽牛子塚古墳は斉明天皇の陵墓と、9日のテレビと10日の新聞で大きく報じられた。松山の来住廃寺跡・久米官衙遺跡群に一辺の長さが一町の濠を巡らせた方形の構造物遺跡があり、その大きさから天皇家の構造物遺跡と見られている。時期は斉明天皇の時…
菅首相はとうとうやってしまった(ココ)。村山、河野、菅と自虐史観の持ち主が権力の座に座ると、誤った歴史認識に立って余計なことを言って、負う必要の無い責務を日本に負わせてしまう。 そもそも日本は朝鮮を植民地にしたのではない。条約を結んで併合し…
愛媛新聞は、来年没後700年を迎える通有を偲び、長福寺が保存する河野氏関係史料を展示した企画展「長福寺と河野氏」が、西条市小松町新屋敷の小松温方図書館で開かれていると報じている。 展示品の中に、河野氏系図や予章記が含まれており、どちらも初公…
湯築城発掘調査報告書第二分冊に、土層標本に関する見解が記されている。それによると、居住区の基盤層は石手川の氾濫層、IV層は出土遺物から10〜16世紀の層とある。この見解は外堀土塁の調査で発見された弥生時代住居跡が、基底層(IV層)表面の直ぐ下…
堀江地溝帯の川が生まれたのは、地溝が埋まってからである。地溝が埋まるまでは東側の花崗岩の岩盤上の土は皆地溝に流れ落ち、地溝が埋まってから岩盤上に再び土砂が堆積して行ったと考えられる。 湯築城跡で弥生住居跡が出土しているが、その標高は40m近…
「天平役人が禁断の肉食…平城宮トイレ穴出土」によると、平城宮跡で、奈良時代の官庁があったとされる「東方官衙地区」で発見されたトイレとみられる穴から、ウリなどの種や果実とともに、牛や豚に含まれる寄生虫の卵が検出された。このことは当時の人が牛や…